- 2009年5月 7日 15:30
Galleryに2ndアルバム「届け、我らの頭上に在りし水なき海へ」のページを追加しました。
・試聴の全数起こし直し(連続再生用の調整...)
・楽譜も全数PDF出力し直し(プリントアウト用のタイトルやページ番号、段間の調整...)
とまあ、伝わるのかわからない部分に手間がかかっております。一度見てやってください。2,3の楽譜はネット上では初出になります。個別曲の解説については掲載していませんが、これは楽譜集を買ってくださった方々へのサービスということで。
(楽譜集は委託終了していますが、10冊少々余剰が出たので後日イベントで希望者に頒布予定です)
全楽譜公開の機会ですので、ある種の総括として記します。
製作にあたって、僕は3人の蓬莱人の時間感覚や定命の者への態度を仮定しました。当時の「曲想.txt」をみると
輝夜...連続性を喪失し瞬間でしか事物を認識をできなくなっている、また感情の演技者である。
永琳...蓬莱人以外への責任感が摩滅し、すべていずれ無くなる関係であると思っている。
妹紅...現在にこだわり、すべてはいずれ消える関係であることから逃避している。
このようなキャラクター性を、ゲーム開始前の彼女たちは持っていた...としています。
残され続ける彼女らの、なんと寂寞としたことか。
ストーリーラインの前提はこのようなものでしたが、でもきっと、永夜抄がエンディングで示したのは、諦観よりもっと前向きなものだったと思うのです。永夜抄が「2人が永遠の人に立ち向かった」話だったことの意味も。
半ば無意識に設定した蓬莱人たちの抱える問題は、他者の受諾、"永遠への憧憬/去りゆく恐怖"の克服といった、自分を含む多くのプレイヤーが社会的生物となるために必要なものの裏返しです。
そして作品を集約すればこのような問いになると思います。
「自分の知覚で世界が生じるのか、他者に知覚されるから自分が在るのか」
前作「帰るべき城」ネクロファンタジア幻想曲の再検証でもあります。
CDの最後に月が見、永琳が見上げ返すというシーンがあります......問いが強いる二元性そのものが検証の対象なのだ、と僕は思います。
全く正当な見方ではないでしょうが、個人的には「夢違科学世紀」が万物斉同への反抗と読めたように、永夜抄は唯識論への反抗なのではないか......などと思っています。
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